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群馬から発祥した明治維新、近代教育の生誕... 新島襄と教育

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 新島襄を語るとき忘れることができないのが第15代安中藩主板倉勝明(いたくらかつあきら)の存在である。板倉勝明(号甘雨)は、未発表の学者の著作を甘雨亭叢書として刊行し、藩士の鍛錬に日本最初のマラソンと云われる遠足(とおあし)を行い、また上州諸藩の中で最も早く領民に種痘を実施、さらに漆産業を興しその利益の一部で農民を救済しようと試みるなど様々な藩政改革を行ったことで知られている。新島襄をはじめとする優秀な藩士に蘭学を学ばせたのも彼である。板倉勝明の命によって蘭学を学び海外への目を開かれた襄は、後年日本を脱国し大海原を渡るのである。

 新島襄は、天保14年(1843)安中藩士新島民治の長男として安中藩江戸上屋敷で生まれた。幼名を七五三太(しめた)といったが、一説には家督を継ぐべき男子が生まれることを待ち望んでいた祖父弁治が男子誕生を聞いて「しめた!」と叫んだからだと云われている。江戸での蘭学修行中に漢訳の聖書によって神の存在を知った襄は、真理探究の夢断ちがたく、元治元年(1865)国禁を破り国外脱出、アメリカに渡り10年間学問とキリスト教を修めた。この間に日本は、明治維新という大きな変革を経て近代国家に生まれ変わろうとしており、西洋の学問を身につけた襄の存在を知った明治政府は、襄に役人になり国家建設に協力するよう求めた。もし、この時襄が明治政府の要請を受け入れ役人になっていたら文部大臣くらいにはなっていたかも知れない。しかし襄は、役人となることを拒絶した。それは、襄が日本にキリスト教精神に基づく教育機関を設立するという大志を抱いていたからであり、彼の理想とする自由な教育は、国家の管理の下では、不可能だと考えたからであった。

 アメリカンボードというプロテンスタントの海外布教を目指す団体(いわばカトリックにおけるイエズス会のような)の支援を受けその副牧師という資格で明治7年に日本に帰国した襄は、すぐさま両親の待つ懐かしい安中へと向かった。そして両親と10年ぶりの再会を果たすのであるが、安中には数週間滞在しただけで、すぐに任地である神戸へ向かわざるを得なかった(彼には副牧師として布教という使命があった)。以後、ほとんど故郷へ帰ることなくキリスト教精神に基づく教育機関の設立と布教という2大目的に東奔西走し、その端緒として同志社英学校(現同志社大学)を京都に設立したが、志半ばで病に倒れ47才でその生涯を終えた。安中での滞在は、短かったが、そのわずかの時間だけでも彼の説教に衝撃を受けた人々の中から湯浅治郎をはじめとするキリスト教信者が30人も生まれた。彼らは、襄に直接教えを請うことを望んだが、それは叶わぬことであった。彼らのため、襄は心のこもった手紙を書いて1人1人の信者を励まし導いた。襄は、多忙を極める生活の中でまとまった著述を残すことができなかったが、こうして膨大な書簡を残したのである。このような襄の教育家宗教家としての純粋な情熱は、湯浅治郎・徳富蘇峰・柏木義円ら多くの心酔者を生み襄の死後もその志を継ぐ者は日本中に広がり、日本の教育・思想に大きな影響を与え続けることになるである。

 改めて新島襄がこんにちに生きる私たちに残したものはなんだったのだろうか?と考えるとき、キリスト教の布教という点では、信者の数だけを見れば大成功したとは言えないかも知れない。しかし彼にはもう一つの大きな目的があった。それは、キリスト教精神による教育を日本に広めることであった。同志社英学校を設立し、彼亡きあとも彼の薫陶を受けた多くの人々がその意志を受け継ぎキリスト教精神による教育を広めた。こんにちのキリスト教系の学校の隆盛を見れば彼の目的は、大成功だったと言えるだろう。もちろん単なる学校の隆盛だけではなく私たちの日常の価値観の中に「自由・平等・博愛」といったキリスト教精神が自然に受け入れられ私たちの行動の規範となっている事実を見れば、彼がこの地に蒔いたのはまさに「教育の種」であったと言えるのではないだろうか。

 ところで群馬県には、「安中教員・館林巡査」ということわざ?があるのをごぞんじだろうか。その意味は文字通り安中には教員が多く、館林には、巡査(警察官)が多いという意味である。館林に警察官が多いのは明治政府が廃藩置県等により失業した旧幕府方の藩士から巡査を募集したことによる。館林藩は、五代将軍徳川綱吉を出した譜代藩であり、多くの失業武士が東京に近いこともあって巡査になったものと考えられている。これに対し安中藩は、前出の名君板倉勝明侯が藩士に学問を奨励したこともあって教員になる失業武士が多かったのである。これに関して面白いエピソードがある。大正頃の上毛新聞だったと記憶しているが、師範学校出のエリート教員が碓氷郡(安中)に赴任することを嫌う傾向があるという記事が載ったのである。これは、碓氷郡には、教育界の重鎮が多く居て他の郡ならすぐに校長になれるのに碓氷郡ではなかなか席が空かないから嫌だというのが理由であった。今日私たちは、新島襄が蒔いた種によってもたらされた果実を無為に食べ尽くしているのではないだろうか?

文/安中市教育委員会学習の森文化財係


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「新島襄記念会堂」
新島襄召天30周年を記念して建てられた大谷石造のロマネスク会堂

 「新島襄記念会堂」は、新島襄召天30周年を記念して1919年(大正8年)に完成した。大谷石造の建物はF・L・ライト設計の帝国ホテル(大正12年竣工)の5年前であり、この点からも設計者古橋柳太郎と安中教会礼拝堂の建築史上の意義が高く評価される。この礼拝堂のデザインは基本的には、外観をゴシック様式とし、石造の壁体に控壁(バワトレス) を入れて分節を行い、正面玄関左に鐘塔を配置している。内部は天井をロマネスク風に円筒ヴォールトとし、身廊と側廊の間には列柱を設けず、会堂を広く見せる工夫がされている。